紫の・・・
紫という言葉は以前から菫を惑わす言葉だ。
紫ってどんな色?最も高貴とされた色。
赤と青の中間色。紫野。紫式部。紫露草。醤油を「むらさき」と呼んだりもする。
パープル。バイオレット。菫色。藤色。貝紫。藍紫。京紫。江戸紫。古代紫。
赤と青の間には、どれほど沢山の紫があるのだろう。そこに白が混じり、黒が混じり。緑が混じり、黄色が混じり。昔があり、今があり。その間にはどれほどの長い時間が流れてきたのだろうか。自然と文学のなかで熟成されてきた紫という言葉。
古い友人に ゆかりさん、という人がいた。苗字ではなく、名前が、紫さん。とてもおとなしい性格だった。どんな時でも大きな声で話したりはしゃいだりすることはなかった。それなのに自分の名前を書くときは、紫という一文字をとても伸びやかな行書でしっかりと書いた。その一字の圧倒的な魅力。苗字は漢字の二文字で、しかも画数が少なかったのだが、「紫」の一文字があまりにも立派で、由美子さんとか久美子さんとか、その時代によくある三文字の漢字のどんな名前よりも存在感があった。紫を 「ゆかり」と読むことを知ったのは彼女の名前からだった。そんな紫さんはピアノの道に進んだ。
「枕草子」の冒頭の中に、
少し明りてむらさきだちたる雲の細くたなびきたる
同じく「枕草子」の「めでたきもの」には
すべてなにもなにもむらさきなるものはめでたくこそあれ。花も糸も紙も。
とある。
昔から日本人にとって 紫は特別な色だった。そして人々は「紫」の和歌を好んで詠んだ。
こんな歌のやりとりも。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王 万葉集
袖を振ることは、相手の魂を呼びよせる求愛。紫草からとれる染料は位の高い天皇や貴族にしか許されない高貴な色であったため、その土地は厳しく管理されていた。紫草の標野(皇室や貴人だけが立ち入りを許可されている)でそんな大胆なことをするなんて、見張りの人に見られちゃったらどうするの。そんなソワソワドキドキの彼女に 彼はこんな余裕。
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも 大海人皇子 万葉集
紫草と書いて「むらさき」と読む。僕と別れて、たとえ今は人妻となっていても 君のことを憎らしくなんて思ってはいない。紫草のように美しく映えているあなたをいまだ恋しく思う。別れても好きな人。
また、こんな歌も。
紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る よみ人しらず
古今和歌集
たった一株の美しい「むらさき」 つまり紫草があるだけで、武蔵野に広がる草花をすべて愛おしく感じてしまう。あなた(紫草)を愛しているから あなたにつながり(ゆかり)のある方々まで愛おしく感じる。「源氏物語」における「紫のゆかりの物語」のもととなった有名な歌。ここでもまた紫草(むらさき)。
紫草の花は白い。根からは紫色の染料が取れる。高貴な色の染料の原料となる紫根。染料だけではない。紫根(シコン)はうるおい効果が高く、健やかなお肌を保つための成分を持つ和漢植物。漢方薬や化粧品の成分にもなっている。
今でも菫を惑わすことば。紫。「紫色」と言われても、そのイメージは曖昧で「この色です」と簡単には選べない。菫は空を眺めながらいつも思う。虹を七色になんてどこでどうやって分けるの?色は連続しているのに。ただ漠然と紫色といわれても、どんな紫色なのか思い浮かべる色は人それぞれに違うはずだ。あなたの紫色と私の紫色は同じではないのだ。
でも もし あなたの好きな紫色は、と聞かれれば、菫は迷わずバーガンディと答える。ワインレッドほど赤くはなく ボルドーほど暗くはない。そんな紫色が好き。もしもバーガンディを紫と認めてくださるならば。でも、菫はまだ七宝焼きでバーガンディの色を上手く出せない。まだ紫色の本質に至っていない。紫色に惑わされたままだ。
そして、さらに菫を惑わすこの一首。現代の恋の歌。初めてこの歌を目にした時以来、菫の脳裏から離れることのない疑問。わからない。何度読んでも、いくら考えても、正解が出ない。
えっ?
紫?
紫の?
紫の<降りますランプ>?
終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて 穂村弘
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