物語の始まり~名前

それでは物語を始めましょう。


菫というのは本名ではない。本名は武者小路実篤先生に父がお願いしてつけていただいた。子供のころ同級生に「わかこちゃんは年をとったらとしこさんになるんだよね」「やーい、としこだ、としこだ」と本名をからかわれ、ひどく落ち込んだことがあった。それ以来、自分はいつか素敵なペンネームを持って、誰も知らないもう一人の自分になってみたいと思うようになった。

中学の入学祝いにと 父が中央公論社の「日本の文学 全80巻」を予約した。それがどのような文学全集なのかはわからなかったが、セットで届く前にそれ専用の本棚が必要だと言って 父は大きな食器戸棚ほどの立派な本棚をわざわざ購入して客間に置いた。この重厚な家具に一体どんな本が並ぶのだろうと 空っぽの本棚を数週間眺めながらその贈り物が届くのを待った。

そしてついにその日が来た。夜遅く帰宅した父は玄関先に並んだいくつもの重い段ボールを見て「おお来たな」と靴も脱がずにすぐに開け、「番号順に本棚に並べなさい」と私に言った。「これは全部わかこのものだぞ。これを全部片っ端から読めれば、それはものすごいことなんだぞ。」興奮して次々に本を手にする父をみて、本当は父が欲しかったのだと思った。一冊ずつ作家名を確かめながら母に自慢げに話しかける父を見て私も嬉しかった。その本は一冊一冊がとても重く、一度に何冊も抱えることは出来なかったので、私は玄関と客間を何往復もした。番号順に左から右へ、一段目から二段目、三段目、四段目と80冊の分厚い本が収まった様は想像以上に美しかった。一冊一冊が青とベージュの堅いケースに入っていて、そのケースの青い背表紙が80冊分ローズウッドの棚のガラス扉の中に整然と何段にも並んだ。その本棚の前に立ち、上から下まで番号と作家名を確かめながら眺めたあとで 父は迷わずにその中の一冊を取り出した。「まずはこれからだな」と言って私に手渡したのは、「日本の文学 第12巻 夏目漱石(一)」だった。折角きれいに並べたのに、そこにスペースが空いてしまったのが少し残念な気もしたが、早く読んでまたこの場所に戻せばいいのだと思った。客間のシャンデリアに照らされた自分が本棚のガラスに鏡のように映った。

しかし、中学生の少女には漱石は手強かった。小さな文字が真新しいインクのにおいのする紙に560ページ 意地悪なほどぎっしりと並び、しかも 「第13巻 夏目漱石(二)」「第14巻 夏目漱石(三)」へと続いている。古い言葉になかなかスピードの上がらない私に母が突然言った。「あなたのひいおじいちゃんは漱石と一緒に写真を撮ったのよ。」明治40年代、夏目漱石は与謝野鉄幹と交流があり、鉄幹は相馬御風と親しく、母の父と祖父は長年その御風と親しかったのだ。私も幼い頃から母の生家で相馬御風の書や与謝野鉄幹の手紙を目にすることはあったが、漱石との関わりは知らなかった。「漱石はただの文学者ではない。日本に住む国民の、日本人一人一人の先生なのだ」と父に聞かされ 雲の上の遠い存在だと思っていた漱石が、急に私の先生になってくださった気がした。


菫程な 小さき人に 生まれたし


この句を初めて目にしたとき、有名なこの句の複雑な解釈など中学生の私にはどうでもよかった。漱石という偉大な文学者が菫という小さな存在に憧れを抱き、この花のような人に生まれたいという、ただそれだけで素敵だった。菫は和歌の世界では万葉の時代から詠まれてきた春の季語で、花の形が、大工道具の「墨入れ」と似ていたことから「すみれ」の名前がついたという。

「私は菫がいい。」母にそう伝えると、「子がついた方がいいわ。董子(すみれこ)にすれば。子がつかないのはお女中さんの名前よ。」と母は言った。「武者先生がつけてくださった名前が娘の一番の財産」と日ごろから言っていた父は、「子がつかない方が響きがいいこともある。ママだってひさこもいいけど ひさと言い切るのも悪くないよ」と笑った。「じゃあお母さんはひさ。私は菫ね。」ちなみに私の二人の祖母は「はつみ」と「きくえ」で、二人とも「子」はつかない。この中央公論社の「日本の文学 全80巻」の編集委員の一人であったドナルド・キーン先生と親しく言葉を交わす機会がくることなど、この時の菫はまだ知らない。



森の季節、風の色

なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる