屋敷
ひさの生家は昔から「山吹庵」と呼ばれてきた。屋敷の入り口で 数えきれないほど沢山の訪問者を出迎えたであろう山吹の大きな群生は、雪国の遅い春に今でも鮮やかな黄色い花を咲かせる。
江戸時代は武家であった。武家なので苗字を持つことを許されていた。「文政4(1821)年3月15日亡」と記されている「甚左衛門」より後の時代については記録が残っている。家系図の基となる過去帳は菩提寺に、家族と雇人たちそれぞれの法名札は山吹庵のお仏壇の引き出しに大切に保管されている。江戸時代中期に起きた菩提寺の火災でそこに預けてあった「甚左衛門」以前の記録は焼失してしまった。
現在の山吹庵の家屋、蔵、墓石は甚左右衛門の娘婿である清蔵が建立した。清蔵は安政の大獄の年の生まれで、ひさの曾祖父にあたる。日本一と呼ばれる厳しい豪雪地帯にありながら 茅葺屋根の二階建ての大きな母屋は約140年間悠然とその原形を留めている。屋敷内には大きな池が三つあり 江戸時代から続く鯉の末裔が今も泳いでいる。
山吹庵のお仏壇は畳一枚には到底収まらないほど幅広の立派なもので、その中には本願寺第17代住職釈真如より拝受した阿弥陀如来が御本尊としておさめられている。当時御本尊があるのは お寺か よほど信心深いひとが身につけていたかで、家屋のなかに御本尊をおさめた御仏壇がある家は珍しかった。元禄時代から現在に至るまで300年以上、山吹庵とそこに住む家族を静かに守ってくださっている。お仏壇には毎朝炊き立ての白米とお茶が供えられ、そのおさがりを家族が分け合って頂戴している。仏間の奥には「ご住職さん」専用の奥座敷と「ご住職さん」専用の御不浄があり、その奥座敷の前の庭には「ご住職さん」専用の出入り口と手水鉢がある。
大広間の高い天井の角には神棚が設けられている。毎年お正月に 周辺の屋敷の長が輪番で戸隠神社までお参りにいき、戸数分の新しいお札をまとめていただいて各々の神棚にお祀りしている。米どころとして有名なその地方の銘酒が、長年使われ続けてきた檜の大きな三宝の上に御神酒として一対供えられている。
「仏様」と「神様」に手を合わせ、「ご先祖様」に感謝のご挨拶をすることは、ひさにとって幼い頃から日常の一部だった。毎朝祖父や父が上げるお経を ひさはいつの間にか覚えた。そんなひさが菫を伴って山吹庵を最後に訪れたのは平成30(2018)年、ひさが86歳の夏である。屋敷が背負う裏山に続く庭の 斜面いっぱいに生い茂った茗荷の群生が、ひさに「お帰り」と優しく風に揺れていた。
我が背子が宿の山吹咲きてあらばやまず通はむいや年の端に(大伴家持 四三〇三歌)
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