糸魚川
ひさの祖父 甚太郎は、明治から大正にかけて地元で産出された石油に周囲が大いに沸くなか、教育の道一筋に生きた。子供たちの教育にも大変熱心で、長男 清一郎にはその地方の中心であった城下町の中学には進ませず、遠く離れた糸井川中学に進ませた。そこでは友人の相馬御風が教鞭をとっていたからである。
御風は甚太郎の2歳年下であったが早稲田大学卒業後すぐに文学界で活躍、25歳の若さで母校校歌「都の西北」を作ったことで有名である。33歳で故郷糸魚川に戻り、良寛の研究に没頭し 童話や童謡を発表し続けていた。
山吹庵の奥座敷にあるお仏壇に面した中座敷の鴨居に、相馬御風書の横長の大きな額が掲げてある。そこには良寛の歌が書かれていて、ひさは子供の頃から毎日目にして育った。清一郎にとっては生涯にわたり心の教示となった。
多けの子の 古登久 ま須久尓 のびのび登 そ多ゝぬ 毛の可 人間の子も 御風
(竹の子の ごとく 真すぐに 伸び伸びと 育たぬものか 人間の子も)
昭和25年5月8日、恩師ご逝去の報に接し、清一郎が詠んだ歌。
追悼 相馬先生
常日頃身近に在はす先生と思いに慣れて終に空しき
崇厳の御姿なれやかくも老いひじりの相となりたまひけり
葬送のひと日静かに先生の軸を掲げてしのびまゐらす
GKが送るカチューシャの音律を師の送葬の曲と嘆かむ
清一郎 月刊『北潮』 1950年7月号
※カチューシャの唄 作詞:島村抱月、相馬御風 作曲: 中山晋平
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